出不精日記

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カテゴリ:吉村昭さんの本( 6 )

炎天 吉村昭作

 3年前に亡くなった吉村昭さんが短歌や俳句について書かれたエッセイと、俳句の本です。


 


 妻の津村節子さんのあとがきによれば、吉村さん夫妻に親しい編集者や画家たち8人で「石の会」という句会を1977年9月にはじめ、メンバーを変えることなく2005年9月まで28年も続いたそうです。


 その句会での俳句を昭和62年に限定15部で発行した吉村さんの唯一の句集が「炎天」で、「炎天」とその後10年の俳句を選んで「補遺」としてこの本に入っています。


 


 若いころ結核をわずらった吉村さんは、やはり結核で亡くなった尾崎放哉の句がおすきだったようです。


 


 吉村さんの句は、ひねくり回してなくて分かりやすい、情景が一枚の絵になって浮かんでくる句が多くて、エッセイを読んだときと同じように、几帳面で誠実な人柄がうかがえるようです。


 


 


炎天 吉村昭作・筑摩書房


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by sacchyant | 2009-09-27 20:00 | 吉村昭さんの本 | Comments(12)

東京の戦争 吉村昭作

 吉村昭さんは、昭和2年に生まれ昭和とともに生き(平成18年死去)、戦争中に疎開せずに東京にとどまったことから「東京というこの都会で『大東亜戦争』と称されたあの戦争に一個の人間として直接接したことが珍しい経験なのかもしれぬ」と思い記録を残すためにこの本を書かれたそうです。



 昭和17年4月18日の東京初空襲のとき、吉村さんは物干台で凧を揚げていて、見慣れない双発機の中にオレンジ色のマフラーを首に巻いた二人の飛行士を見ました。しかしそのときは米軍機とは思わず、しばらくして空襲警報が鳴って知ったのでした。それが東京の戦争の始まりでした。



 度重なる空襲に、吉村少年は奇妙な願望を持つようになりました。それは空襲にさらされた町から離れたかったが住んでいる家屋に縛り付けられていたので、一日も早く空襲で家が焼るのを願ったのです。

 その願いは昭和20年4月13日に、日暮里に大量の焼夷弾が落とされてかなえられました。

 常に死が隣にあったストレスから、いっそ家が焼ければ良いと思ったのでしょうか。吉村さんの文章は淡々としていて、それだけに胸に迫るものがあります。



 一方で、戦争が悪化するにつれ食料や生活用品が欠乏し暗黒時代だったけれど、そんななかでも映画館や寄席に通うという楽しみを見つけ、妙に明るい気分で日を過ごしていたような気がするとも書いています。



 また空襲の後で焼け残った金庫を拾い集めて修理し売っていた男や、水道管を掘り出して金に替えていた男など、そんなときでも知恵を働かせて巧みに生きていた人々。

 いつも買い物をしていた近所の八百屋が、食糧不足になるにつれ代金とは別に品物を取るようになったこと、塀で囲まれた墓地の中でどういう関係なのか男女の情交に遭遇したことなど、普通では考えられないことが戦時下の異常事態の中で起きていました。



 けれど結核の療養先で「ハハシス」の電報を受け取り、駆けつけた駅で手に入りにくい切符を都合してくれた駅長さんがいましたし、空襲の後の大量の遺体を黙々と埋葬した軍隊・警察・消防署の人々と、受刑者たち。刑の軽い受刑者たちでしたが、作業中に脱走した者はいなかったということです。



 そして戦後、ますます生活が厳しくなり混乱していた中でお父さんを亡くされたことなど、吉村さんが見聞きしたことや、戦後になって小説を書きながら得た知識もふまえて、事実を淡々と綴られています。





東京の戦争 吉村昭作・ちくま文庫




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by sacchyant | 2007-08-15 22:53 | 吉村昭さんの本 | Comments(0)

「陸奥爆沈」のその後

 昨日のエントリ「陸奥爆沈 吉村昭作」から続きます。



 戦艦陸奥は「陸奥爆沈」が出版された後で、遺族の悲願によって引き上げられたことが吉村さんのエッセイに書かれています。



「わたしの普段着」吉村昭作・新潮社のなかの「浜千鳥」です。実は私はこれを読んでから、興味がわいて「陸奥爆沈」を読みました。



 吉村さんは犯人を仮にQとしていますが、Qが犯人だとされたのは窃盗の疑いがあったということのほかに、爆発した火薬庫へ第三番砲塔から行くルートを知っていた数少ない人間だったからです。



 ある夜、陸奥の引き上げを取材している記者から電話がかかってきました。記者は引き上げられた第3番砲塔からばらばらになった遺骨と印鑑が見つかったといい、放火の犯人は彼ではなかったかと印鑑にあった名前を読みました。

 吉村さんは違うと答えます。

 苗字には同じ漢字でも二通り以上の読み方があるものがあります。記者が言った犯人の苗字は同じ漢字の違う読み方だったのです。

 吉村さんが違うと答えたのは、やはり「陸奥爆沈」で犯人をQとした同じ理由からでした。





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by sacchyant | 2007-04-07 23:25 | 吉村昭さんの本 | Comments(0)

陸奥爆沈 吉村昭作

陸奥爆沈 吉村昭作・新潮文庫




 昭和18年68日正午ごろ、岩国沖の瀬戸内海で戦艦陸奥が爆沈しました。陸奥は戦艦大和・武蔵に次ぐ重要な戦艦であり、戦争中だったのでその事実は極秘にされました。



 吉村昭さんは戦後その陸奥の殉職した乗組員が焼かれたという無人島に行く機会があり、そこで死者の声を聞き、なぜ陸奥の爆沈し1121名の乗組員が殉職するにいたったのか、鎮魂のためにこの本を書く決心をしたのでした。


 吉村さんは地元の人や生き残りの乗組員の話しを聞き、爆沈の調査をした記録を調べ、また当時調査した人に会います。その過程で爆沈した軍艦は陸奥だけでなく、日露戦争のとき日本海海戦の旗艦であった三笠は2度も、そのほか4隻の船が火薬庫の爆発などで爆沈していました。



 三笠は乗組員が火薬庫で飲酒をしていたときのローソクが原因で、他の船では放火が原因で爆沈していたことが分かります。そして陸奥の場合も窃盗を疑われた乗組員が放火したのではないかという事実が浮かび上がります。



 吉村さんは陸奥爆沈のときに潜水調査をした救難隊の指揮官の補佐役だった人に犯人の名前をただしました。



「あれから二十七年もたっているのですから、もう名前を明かしても良いでしょう。あの名前だけは一生涯忘れませんよ。それは……」



 その人は姓を明かし吉村さんは後に名前も知りましたが、犯人の親族をおもんばかって本の中では明らかにしていません。

 

 自分の窃盗を隠蔽するために1121人を道連れにした犯人の心境というのは、どういうものだったのでしょうか。


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by sacchyant | 2007-04-06 23:08 | 吉村昭さんの本 | Comments(0)

回り灯篭 吉村昭

 去年亡くなった吉村昭さんの随筆は好きでよく読みます。

 締め切りに遅れたことがないというまじめで誠実な人柄が表れていて、個人的な筆誅を加えるということがないので安心して読めるからです。いくら好きな作家でも、生な怨恨から書かれた文章を読まされるとぎょっとします。

 吉村昭さんは、取材旅行などに行かれた先で不快なことがあっても必ずどこか分からないように書き、反対に良い話は場所を書きました。それは人についても同じです。



 「回り灯籠」吉村昭著 筑摩書房



 この本に「大地震と潜水艦」という随筆があります。

 吉村さんが幼いころ、ご両親がよく関東大震災の話をされていたことから、「関東大震災」(文春文庫)を書かれたのですが、そのとき読んだ震災の記録に忘れがたい一挿話があり、それはイギリス人脚本家の手記です。



「日本人の群集は、驚くべき沈着さを持っていた。庭に集ったものの大半は女と子供であったが、誰一人騒ぐものもなく、高い声さえあげず涙も流さず、ヒステリーの発作も起こさなかった。すべてが平静な態度をとっていて、人に会えば腰を低くかがめて日本式の挨拶をし、子供たちは泣くこともなくおとなしく母親の傍らに座っていた。」

 この情景に、かれは日本人とはどのような性格を持っているのか、と呆然としたという。




 さらに戦時中に松山沖で事故のため沈没した潜水艦が、戦後引き上げられたとき乗組員が眠っているようにそれぞれベッドの上で横たわっていたが、外国の潜水艦が沈没して引き上げられたとき、我先に脱出しようと争った後があり凄惨なものだという話をあげ、吉村さんは「イギリスの脚本家の手記に見られる日本人たち。それは私自身でもあるような気がする」と書いています。



 たしかに今度の能登の地震でも、先の中越地震・阪神淡路大震災でも日本人はそうであったと思います。

 わたしも近いうちに南海地震があるといわれているところに住んでいるので、地震は他人事ではありません。命の危険があれば分かりませんが、家が壊れたら呆然としつつ、やはり近所の人に会えば挨拶をしているだろうと思います。

 なぜでしょうね。

 日本人が特別冷静沈着であるということではなく、長い間に養われた諦感でしょうか。天災とか運命には抗いがたいという。

 

 う~ん、でもやっぱりよくわかりません。



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庭の侘助です。


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by sacchyant | 2007-03-27 22:11 | 吉村昭さんの本 | Comments(0)

「死顔」 吉村昭作 ―遺作短編集とその死―

 風邪で寝込んでいる間に積読になっていた本を読みました。

 その中の1冊が、



「死顔」吉村昭作 新潮社



 去年の7月31日に亡くなった吉村昭さんの遺作短編集で、遺作だからと言うわけでもないでしょうが、どれも死にまつわる話ばかりです。締め切りに遅れたことがないという吉村さんらしいまじめさで、淡々と無駄のない文章で書かれています。

 明治時代の不平等条約改正を書いた「クレイスロック号遭難」という未発表だった作品が、現代を舞台にしたほかの作品の中で異質で、未完成のようでもあり完成された作品を読みたかったですね。



 そして吉村さんと言えば、亡くなる時に自ら点滴をはずし、カテーテルを引き抜き、死を迎えられたことを、夫人の津村節子さんは「自決」と言われました。私はそれを知ったとき、若いころ肺結核の手術をされたとき局部麻酔で5時間の激痛を耐えられたことを、エッセイなどで読んだのを思い出し、人間の覚悟の違いを思ったのでした。



 「死顔」の中でも、幕末の蘭方医の例を上げ、死期の近いことを悟った医者が、食も薬も絶って死を迎えたことを理想とし、「医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変わりはない」と書いています。



 やはり寝込んでいた間に読んだ「日本の心」元財務大臣の塩川正十郎さんの対談集(日本武道館刊)で、山折哲雄さんがこう言っています。



 その点では日本の伝統とか、日本の文芸世界には、死を考える深みのある価値観というものがたくさんあったとおもいますね。

 例えば、西行法師は自分の思った通りに、思った日時に、「桜の咲いている、満月の夜、桜を見ながら死んで行きたい」と、その通りに大往生しています。多分、死を覚悟した後、最後の十日くらいは絶食したのではないかと思います。



 そして、西行が歌の通り死んだのは偶然のように伝承されているけれども、それを悟らせなかったことが西行のすごいところです、とつづけています。昔は弘法大師をはじめ僧侶が自ら断食して入滅することがありましたし、西行が実は断食して死んだというのはありそうです。



 しかし、自分が死に瀕したとき無用な延命はして欲しくないとは思っても、今はすぐに病院に担ぎ込まれ、断食するにも点滴などで栄養を注入されてしまいます。何よりそれ以前に、そのときに意識があって「もはやこれまで」と思っても、自ら人生を終える覚悟ができるかどうか。




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辛夷(こぶし)の花芽です


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by sacchyant | 2007-01-19 22:00 | 吉村昭さんの本 | Comments(0)